歴史

西暦1000年のこと

それはすべて、およそ1000年前に始まりました。今は何かが発見されても当たり前のように思われる時代ですが、当時はまだ発見が珍しい時代でした。

中世の人たちは、環境に依存する生活をしていました。生き残るためには環境に素早く順応する必要があったのです。

食物の保存方法

農業にとっては、これは季節のサイクルに適応し、毎月毎月自然がもたらしてくれる農産物作りに励むことを意味しました。

食物の保存技術(天日干しや塩漬けなど)は限られており、まだあまり発達していなかったため、食物の大半が急速に劣化していました。

搾乳日に必要な生乳やフレッシュチーズが1日以上もつことはありませんでした。

ポー平原の湿地を埋め立てたシトー会の修道士たちは、そこにキアラヴァッレ修道院を建て、作物の栽培と家畜の飼育を始めました。その後まもなく、修道士たちの土地ベース経済が食料生産の増加と牛乳の余剰をもたらすことになりました。その量は、修道士コミュニティや地元住民のささやかなニーズをはるかに超えるものでした。

中世の時代、牛乳は手に入る食物の中でも最も栄養価の高い食物の1つでした。こんな貴重な食物を無駄にするのは残念なことだったに違いありません。修道士たちはこうして、牛乳をより長期間保存できる方法を見つけなければいけなかったのです。

「Cum grano Salis(塩をひとつまみ入れて…)」

修道士たちはおそらく、長い時間をかけ、慎重に検討し、実験をいくつか行ったのでしょう。その後で、牛乳をまずゆっくり調理し、レンネットを追加した後でチーズを塩漬けするというアイデアが、明らかに一番優れた解決策だと分かったのです。

このザラザラした、

密度の高い「カチオ」(チーズ)は、真の乳製品としては史上初めてのものだったのです。それは修道院の地下室で作られました。そしてその地下室の、修道士の監視の目の下で、「カザロ」といった特定の職業が登場し始めました。「カザロ」はチーズ製造技術の真の専門家です。長い熟成プロセスのため、修道士たちはチーズを「caseus vetus(古いチーズ)」と呼んでいました。この名前はグラナ・パダーノの要素の1つを浮き彫りにする名前であり、この要素により、グラナ・パダーノは当時すぐに食べる必要があった従来型のフレッシュチーズとは種類を異にするチーズとなったのです。

「フォルマッジオ・デ・グラナ」

しかしながら、当時ラテン語に馴染みのなかった農民たちは、そのザラザラした舌触りから、これをザラザラしたチーズを意味する「フォルマッジオ・デ・グラナ」または単に「グラナ」と呼んでいました。(「グラナ」とはイタリア語で「粒状の」という意味です。)
各地域が独自の「グラナ」を製造するため、原産地によって名前は異なります。その中でも最もよく知られているのは、「グラナ・ミラネーゼ」(ミラノ)「ピアチェンティーノ」(ピアチェンツァ)、「マントヴァーノ」(マントヴァ)、そして最古のグラナ・パダーノとみなされている「ローデサーノ」(ローディ)などです。

公爵、侯爵、そして…

数世紀の間に、ポー平原産のグラナ・パダーノはどんどん人気を高めていきました。ルネッサンス時代の宴会やごちそうの中心的な存在となり、王子や公爵たちから宝物のように扱われました。
グラナパダーノを扱った歴史的記録の中に、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガの配偶者であるイザベラ・デステからの書簡がありました。1504年、イザベラは親戚のフェラーラ公爵に、この有名なチーズを贈り物として送っています。

庶民の伝統

グラナ・パダーノの豊富な栄養特性、賞味期限の長さ、そしてその独特の特徴や風味のお蔭で、グラナ・パダーノはこの国に住む人々にとって大切な食料源となりました。ひどい飢饉の間などには特にグラナ・パダーノによって多くの人が助けられました。
経済的地位や社会的地位を問わず誰からも愛されたグラナ・パダーノは、こうして文化全体を代表するようになりました。凝った料理や洗練された料理に慣れ始めた金持ちや貴族から貴重な食物として愛でられたのも確かですが、貧しい人々はこのチーズをもっとずっとシンプルで伝統的な家庭料理に使っていました。

アズ・タイム・ゴーズ・バイ~時が経つにつれ

時とともに、牛乳を「グラナ」に変容させる方法は広まり続け、ついにはこの地域の経済を支える柱となりました。
「グラナ」の製造技術は、伝統を忠実に守りながら何世代にも渡って受け継がれ、今でも守られています。このプロセスによって、唯一無二のこのチーズはその素晴らしい香りの質や魅力を維持することができたのであり、グラナ・パダーノは世界中に知られるようになったのです。

アイデンティティ問題

美食文化や食習慣が時代とともに進化していくなかで、各地域の古代の伝統や特定の生産・製造技術の特徴や特異性を明確に識別する必要性がかつてないほどに高まっています。
伝統的に作られていたある1つのチーズの俗称を独自の名前に変えることで、このチーズを真に唯一無二のものとすることが決定されました。
それ以降、「グラナ・パダーノ」という用語は、指定された地域で、特定の原材料と技術を使用し、手順に1つずつ確実に従って製造された、特定のチーズだけを識別する用語となりました。

1951年

6月1日、ピエモンテ州マッジョーレ湖のほとりにあるストレーザに欧州のチーズ製造業界の職人や技術者たちが集まり、チーズの公式名称とその固有の特徴の識別規則を定義する協定に署名しました。
その同じ日に、「グラナ・ロディジャーノ」チーズは専門家によって2つの異なるタイプに区別されることになりました。その2種類は現在、「グラナ・パダーノ」と「パルミジャーノ・レッジャーノ」として識別されています。

1954年

6月18日、フェデルラッテ(牛乳組合連合) とアッソラッテ(牛乳・酪農産業協会) のイニシアチブによりグラナ・パダーノチーズ保護協会が設立されました。これにより、このチーズの製造者と販売者が再び1つに結集したのです。

1955年

10月30日、イタリア共和国大統領令第1269号が発令されました。「チーズの加工方法、材料特性、生産地域に関連する名称の認知」に関連した法令です。
その中に、グラナ・パダーノが含まれていました。

1957年

グラナ・パダーノチーズ保護協会は、グラナ・パダーノチーズの製造・生産および取引を監督する役割を引き受けることになりました。

1976年

12月12日、グラナ・パダーノチーズ保護協会の目的および目標を確認する合意が取り決められました。これにより、協会の第一の目的はグラナ・パダーノの独自性の保護となりました。さらに、グラナ・パダーノの特性に関する教育を通じたグラナパダーノの宣伝・促進、地場生産を支援するための取り組みや活動、流通およびマーケティングの規制も目的に挙げられました。その活動はイタリアだけでなく世界中を対象としています。

1996年

グラナ・パダーノはEU(欧州連合)からDOP(保護指定原産地表示のこと。英語ではPDO)ステータスの認定を受けました。
この認定を受け、それまでの保護協会およびイタリア農業省による承認に加え、外部の認証会社CSQAによる検査確認も行われるようになりました。これにより、グラナ・パダーノのホイールの1つ1つが仕様要件に正しく準拠して作られることがさらに確かに保証されます。

2002年から今日に至るまで

2002年から2017年の間に、グラナ・パダーノチーズ保護協会の役割の更新と見直し、拡大が行われました。
イタリア農林省の承認を受け、同協会は少なくとも2054年12月31日まで活動することが許可されました。